ラプソディ・イン・お茶「ラプソディ・スケッチ」

希少価値が高いお茶をどう取り扱い、どう楽しんだのか。17世紀から18世紀のヨーロッパの風景をご紹介します。

「東洋の万能薬」への熱視線

17世紀、ヨーロッパに渡ったお茶は、体に良い効果があるものとして紹介されました。オランダでは、「お茶は頭を使う人には良くない」と力説する人もいれば、「お茶は精神を闊達(かったつ)にする」と反論する人もいて、その評価は割れました。〝良薬〞派の中には「毎日200杯飲もうが問題ない」と言い放つ人も現れ、また、ミスター・グッド・ティーという異名を持つ博士は高熱を下げるために一日40〜50杯の茶を処方したといわれています。

オランダ東インド会社が1636年にお茶を持ち込んだとされるフランスでは、当初、お茶は薬屋で販売されました。医療の専門家たちの間では、お茶の効用について議論が沸騰。「世紀の忌まわしい発明」と批判する専門家に対して、司祭は「その貴重な薬効を認めなければならない」と反論。司祭は、神経性の頭痛、痛風にも効く薬と書物に記したといい、ルイ14世は痛風の改善のためにお茶を飲んでいたそうです。また、書簡作家としても知られるセヴィニエ侯爵夫人は、体調不良の友人に宛てた手紙で、温かいお茶にミルクを加えて飲むように勧めています。お茶を飲めば元気になる、体調が整うと広く信じられていたことがうかがえます。

イギリスでも評価は同様だったようで、ロンドンに誕生したコーヒーハウス1号店「ギャラウェイ」は、1657年、お茶を「万能薬」、「不老不死の妙薬」と宣伝して販売を開始。翌年には、コーヒーハウス「スルタンの妃の首」が英国の新聞に「医師たちがこぞって称賛する、中国では〝チャ〞、そのほかの国では〝テイ〞とも呼ばれる、別名〝ティー〞」と記した茶の広告を掲載します。まだまだ値の張る輸入品だったにもかかわらず、「東洋の万能薬」と宣伝されたお茶は多くの人々を呼び込みました。1667年、イギリスの日記作家、サミュエル・ピープスは、「薬剤を用いる化学者から、寒気と鼻水に効くと勧められ、お茶を飲んだ」と記しています。お茶の効能は、今でいう口コミでどんどん広がり、関心も高まっていったのでしょう。

17世紀、ロンドンに登場したコーヒーハウス。

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コーヒーハウスとティーハウス

17世紀半ば、イギリスには、お茶、コーヒー、ココアがほぼ同時期にもたらされ、その中で最初に人気を博したのはコーヒーでした。これらの飲み物を提供したお店はコーヒーハウスと称し、1650年にオックスフォードに第1号が登場するや、イギリス全土に広がっていきました。コーヒーハウスではお茶もココアも飲むことができましたが、女性の立ち入りは禁じられていました。そこに目を付けたのが、トーマス・トワイニングです。トワイニングは、1717年にイギリス初のティーハウス「ゴールデン・ライオンズ」をオープン。店内をインテリアに凝ったおしゃれな雰囲気に調え、女性客を迎え入れることに成功します。
イギリスでお茶の消費がコーヒーの消費を上回ったのは、1730年代。この逆転劇に、ティーハウスも一役買っていたかもしれません。

お茶を囲む室内風景。3人の登場人物の衣装から、1715年頃、イギリスで描かれたものと考えられている。
ヴィクトリア&アルバート博物館 / ユニフォトプレス

喫茶は、上流階級のステイタス

お茶がとても高価なものだったこの時代。喫茶習慣は、王室や上流階級から始まります。イギリス王室を例にご紹介しましょう。

1662年、チャールズ2世が王妃として迎えたキャサリンが、喫茶習慣を王室に持ち込んだというのが定説です。キャサリンは、東洋貿易の先進国だったポルトガルの名門ブラガンザ家の出身。自身もお茶好きで、イギリスの海岸に着くと、まず一杯のお茶を求め、嫁入り道具には中国茶の収納箱が含まれていたといいます。

その20年余り後、名誉革命によって夫のウィリアム3世と共に王位に即位したメアリ2世とその妹のアン女王も大のお茶好きで、宮廷で茶会を何度も開催。上流階級にお茶ブームをもたらしました。

17世紀、ニューイングランドでの野外ティーパーティーの図。手彩色による木版画。ユニフォトプレス

王室では、茶に砂糖を入れて飲んでいたようで、高価な茶に、同じくらい貴重な砂糖を入れるというのは、お茶の苦みを和らげるだけでなく、裕福であることをアピールするアイコンだったのかもしれません。貴族らもこれを真似、王室流の飲み方がステイタス・シンボルになりました。

お茶が限られた世界だけで流通していたことを物語るこんなエピソードもあります。ある侯爵の未亡人がスコットランドの親類に飲み方を告げずに1ポンドの茶葉を送ったところ、親類宅の料理人は、茶葉をゆで、その湯は捨てて、ほうれん草のように皿に盛りつけたそうです。料理人には、茶葉は葉野菜の一種と思えたのでしょう。

女性たちの虚栄心も集う

お茶はもっぱら室内で振る舞われ、味わうものでした。人を招いてお茶を楽しむ場をもてなすホストは、多くの場合、女性たち。道具立てを介して、虚栄心を満たそうという競い合いが始まります。

イギリスのアン女王は、茶を飲むための椅子とテーブル、高級な茶器を収納する飾り棚などにとても凝り、それを見て刺激を受けた上流階級の女性たちも、上等な茶器やテーブルなどを求めるようになります。ちなみに、頻繁にお茶を飲んでいたアン女王が使っていたティーポットは釣り鐘型の大きなもので、銀製だったそうです。

オランダでも喫茶習慣は上流階級から始まり、茶会は当初、昼食後に開かれていました。それが、やがて午後遅い時間となり、「アフタヌーン・ティー」の原型となったという説があります。

お茶がオランダに渡来して間もない頃、茶会での茶の飲み方は一風変わっていました。お茶を中国式のポットからカップに注ぎ、冷ますためにソーサーに移し替えます。それをズルズルと大きな音を立てて飲む、それがマナーでした。これは、日本を訪れたオランダ人が日本の茶道に感動し、その作法を真似たものとも考えられます。

ティーガーデンでくつろぐ上流階級の一家。1790年頃、イギリスの画家ジョージ・モーランドによる点刻彫版。
ヴィクトリア&アルバート博物館 / ユニフォトプレス

1783年頃、ジャン=エティエンヌ・リオタールの静物画。当時のティータイムの様子がリアルに描かれている。ユニフォトプレス

陶磁器ブランドを生み出す

中国の影響が色濃く表現されたデルフト陶器。

お茶と同時に、茶器もヨーロッパに渡り、そこからヨーロッパの陶磁器の歴史が大きく展開していきます。

オランダの商人たちは、中国から高価な磁器を輸入し、オランダの職人たちはその茶器を真似て、ファイアンスと呼ばれる陶器を生み出します。また、芸術家たちが、中国の磁器の青と白の組み合わせをアレンジしたものがデルフト陶器です。

1700年代、ドイツではマイセンで陶磁器の製法を解明。中国の陶磁器を手本としたことから、カップは薄く、取っ手がなく、ソーサーは奥行きがある、浅い碗のような形からのスタートでした。

フランスではパリの東方にあるヴァンセンヌ城で軟磁器の製造が始まり、その後、工場がセーヴルに移転。リモージュで白粘土が発見されると、この土を使った精緻な食器が生み出され、カラフルな色使いが特徴的なティーセットは、有力な支援者だったポンパドール夫人にあやかって、ローズ・ポンパドールと名付けられました。

今でも高く評価されているヨーロッパの陶磁器ブランドを生み出したことも、お茶の効用といえるでしょう。

フランス・パリのヴァンセンヌ城。

1725年頃、マイセン磁器工場で作られた取っ手のないティーカップ。

東洋へ9回の航海を行ったイギリス東インド会社の船“Warley”。
1804年ロバート・サーモンによる油彩。

ミステリアスな存在だったお茶は、こうして海を渡り、ヨーロッパの生活様式や文化などにさまざまな影響をえ、日常的なパートナーになっていきました。

世界を動かし、歴史を開いてきた一杯のお茶。きっと今も、世界のあちらこちらで新しい物語を届けているはずです。

○参考文献
羽田正『興亡の世界史(15)東インド会社とアジアの海』講談社 / 羽田正監修『角川まんが学習シリーズ 世界の歴史9』KADOKAWA
井野瀬久美惠『興亡の世界史(16)大英帝国という経験』講談社 / ヘレン・サベリ著 村山美雪訳『ヴィジュアル版 世界のティータイムの歴史』原書房 / クレア・マセット著 野口結加訳『英国の喫茶文化』論創社

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