ラプソディ・イン・お茶「アジアは憧れだった」

中国で描かれた茶の倉庫を訪ねたヨーロッパ人。18世紀、中国の絵。ヴィクトリア&アルバート博物館 / ユニフォトプレス

ヨーロッパの人は、なぜ、お茶にそれほどまでの関心を持ったのでしょう。
羽田先生は、当時のヨーロッパの人はアジアに憧れを抱いていたと語ります。

豊かなアジアへの憧れ

「アジアは、ヨーロッパより圧倒的に豊かだったんです。日本や中国では当たり前のように絹や綿製品を着ていましたが、ヨーロッパでは綿も、絹もとても高価でした。フェルメールが描いた名画『牛乳を注ぐ女』の主人公が着ている服は、麻製です。また、お茶や胡椒のような薬種や絹、陶器、綿織物など、ほしいものがたくさんありました。陶磁器でいえば、日本や中国のものには柄や絵が付いていましたが、当時のヨーロッパではそのようなものは作れませんでした。お茶や胡椒などが入手困難で貴重な生薬だったことも忘れてはなりません」

シャルダンが質問を受け取った頃は、ヨーロッパにお茶がもたらされてすでに60年以上が経っており、ロンドンではコーヒーハウスでお茶が提供されていました。しかし、9つの質問に初歩的なものが少なくないことから考えると、お茶を知る人はごく一部に限られていて、憧れのアジアの希少な産物の域を出ていなかったことがうかがえます。

ジャン・シャルダン(1643-1713)。オックスフォード・アシュモウリアン博物館蔵。

アメリカの銀でお茶を買う

アムステルダムの地図作家、ヨハネス・ヤンソニウスが17世紀に発刊したアジア図。各国の衣装や主要都市の鳥瞰図が描かれているが、日本については描かれておらず、まだ北海道も記されていない。 

1610年、ヨーロッパにお茶を運んだのはオランダ東インド会社と記録されています。

羽田先生は、当時のヨーロッパに大きな影響を与えた東インド会社をこう解説します。
「イギリスがインドを植民地化するときにその手先となったとの印象が強いため、東インド会社は国営と誤解されがちですが、元来は王様から東インドとの独占貿易を許され、運営していた民間の会社です。
イギリス東インド会社は1601年、オランダ東インド会社はその翌年に設立されます。その頃はヨーロッパよりアジアの勢力が強大でしたから、そこに攻めていくという発想はなく、貿易が目的だったと考えるのが妥当です」

1664年にはフランスの東インド会社が設立されます。オランダ、イギリス、フランスの東インド会社の運営方法は異なりましたが、こぞってアジアに向かいました。
「アジアのものがほしいものの、ヨーロッパには毛織物くらいしか売り物がなく、それは温暖なアジアでは売れません。さあ、どうやって取引をするかというときに、アメリカでたまたま銀が大量に出始めました。
アジア各地でも銀は産出されていましたが、たくさんあって困るものではありません。東インド会社はヨーロッパの人々が自分たちの都合で持ち出したアメリカの銀を、アジアでの買い物に充てたのです」

イギリスでは500%の関税も

1700年代、東インド会社の働きによってお茶の輸入量は各国で増えていきます。
「イギリス東インド会社は、中国に安定的な貿易拠点がなく、中国や東南アジアの私営貿易業者からお茶を購入するしかありませんでした。それ1713年以降、広州へ船を送り、直接貿易ができるようになったことで、輸入量が増加。50年も経たない間に40倍近くに増えました」と羽田先生。

同じ頃、オランダやフランス東インド会社もお茶の輸入量を増やし、1730年代からはスウェーデンやデンマークの東インド会社もお茶の貿易に参入。お茶が大量にヨーロッパに運ばれていきます。
「お茶をヨーロッパに安定的に運べない時期が長く、そのことからヨーロッパでのお茶の希少価値が高まりました。イギリスでは一時、500%もの関税をかけたというのですから驚きです。それが、1780年代に一気に下がり、お茶も安くなりました。希少かつ高価ゆえに特権的な飲み物として、上流階級層を魅了したお茶は、この頃から市井の人々に普及していきます」

イギリスで描かれた博物画には各国の茶葉が見られる。 

お茶を求めた経験が糧に

ヨーロッパに溶け込むうちに、お茶は新たな役割を果たすようになります。羽田先生は、お茶を囲む場が生まれたことに着目します。
「船の沈没や航海中の略奪に困っている船主と金融業者が、お茶を飲みながら話をしているうちに保険が生まれたといわれるように、お茶が呼び水となって生まれた副産物は少なくないでしょう」

お茶の買い付けがいつも思い通りに行くとは限りません。そこでヨーロッパの人の中には自分たちでお茶を栽培しようとする人が出てきます。その先駆者がスコットランド人のプラントハンター、ロバート・フォーチュンです。
フォーチュンは、中国福建省武夷山から茶樹の優良品種と栽培技術をインドに持ち出すことに成功し、これが今や世界最大の紅茶産地となったインドの茶栽培の布石となります。
「お茶の話からもわかるように、17・18世紀のヨーロッパの人は世界中を動き回っていました。その経験によって多様性を知り、視野を広げ、知識を蓄積し、次の世紀の糧としました。近年モビリティの重要性が叫ばれていますが、当時のヨーロッパの人はある意味ですでにそれを実践していたわけです」

ひとつかみの茶葉を求め、海をいくつも渡ったことで、ヨーロッパの人は自らの豊かさを獲得したといえるのかもしれません。

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なぜ、ヨーロッパの人はお茶にそれほどまでの関心を持ったのでしょうか。

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